12. Cicada
初めて聴いた時、素直にアルバムのコンセプトが凝縮されていて、大トリに相応しい佳曲だなぁと感嘆しました。
蝉の一生に喩えて文学的に歌い上げられており、清涼な空気に包まれているような感覚になります。
ゆったりとした河の流れに身を委ねるかのように流れるメロディに、後半の蝉の羽音を意識したかのような音の選びも粋ですね。
それに、聴くだけで日ごろの喧騒から抜け出して、高級旅館(環翠楼さん)で過ごしているような気分になれてお得感も備えた曲でもあります(笑)
君三部作の頃から、等身大の若者の姿を歌っていると評されていたマッキー師匠ですが、その頃の曲には"ちょっと背伸びをしたいお年頃感"があったのが、ここに来て背伸びでも無く、ましてやシークレットブーツでも無く、等身大のマキハラノリユキが感じられるアルバムだったと、20年以上経った今、より強く感じます。
リリース当時に思ったのは
とにかく素敵♡
この一言につきました(笑)
個人的に忙しい時期だったこともあって、じっくり聴く時間はそんなに取れなかったけど、起きがけや寝る前のひと時にどれだけ癒されたことか。
そうして、アルバムリリースからひと月と少し。
突如放たれたニュースの威力・・・それはもう筆舌に尽くしがたいものでした。
それはまさに『恐怖の大王』
ノストラダムスの大予言は全く信じていなかったけど、本気でこのワードが脳裏に浮かびました。
伝えたいことがあるから
君の住む町にきたよ
忘れないでほしいから
うるさく鳴いてみせるよ
当事者でないので所詮は与えられた情報の断片からの想像でしかない状況ではありますが、このフレーズが歌い手の姿にオーバーラップしてきて、わたしにとってHungry Spider よりも断然、当時を思い起こす曲になりました。
3rdアルバムに収められた遠く遠くも「存在を覚えていて欲しい」という点ではCicadaと同じなのに、前者がエネルギー弾ける始まりのための別れの曲であるのに対して、Cicadaは終わりを予感させるような出会いという印象で、この2つの曲は全く逆なところがいとをかしなのですが、
〜次の夏は来ない〜
Cicada にはそんなメッセージが仕込まれている様に思えて仕方がありませんでした。
打ちつける夕立の
拍手が鳴りやむころ
我先にと羽をこする
蝉たちのように僕はうたう
実際にどんな心境がこの曲に込められているのかはご本人のみぞ知るトコロでありますが、歌詞の印象に加えて、2番のAメロBメロに相当する部分がない事も、成虫でいられる時間がひと夏限りのセミの一生に重なって、
捕まったとき、本当にほっとした。
(槇原敬之の本。松野ひと実 著)
という、2004年に発行された半生記にあるコメントがリアリティを持って受け止められたのも、薬物を断ち切りたいという思いをこのCicadaから感じていたからなのかもしれません。
あるみ氏も書いていたように Hungry Spider はあたかも薬の影響でできた曲、もっといえば才能ではなく薬物の力を借りて作られた曲という風潮が、特にネットの中では溢れていました。
信じていたからこそ聴けなかった人、逆に聴かずにはいられなかった人。
ファンだったのに批判する側にまわった人も、それぞれが自分の心を守るための行動をとった時期だったのだと思います。
私は『そうじゃない』という確信が欲しくて何度も作品を聴いた派でした。
そうして自分の中に出た結論に安心する事が出来たのを覚えています。
ネットで情報収集とか、署名活動とか、とにかく何かしてないと落ち着かなかったけど、忙しかったのが幸いしたのと、ファンクラブが継続された事が一番支えになりました。
蛍〜Firefly〜のように淡くとも、まさしく希望のヒカリでした。
今は槇友さんも増え、三本の矢よろしく、痛みを共有できる仲間がいる心強さのおかげで、折れることなく静かに待つと言うことができているのだと思います。
来年の夏にはまた煩く鳴く蝉の声が聴こえてきますように。